おすすめ 小説 異世界転生騒動記

異世界転生騒動記 | 作者: 高見 梁川

あとがき

おすすめ小説にあとがきをつけたい、そう言いだしたのは新たに担当となった女史だ。「内容は何でもいいので、読み終えた後の感想をネタバレなしで書いてもらいましょう。その初読み読者の生の声を、そのままあとがきとして使います。」と、力強い説に押されはじめることとなった。

……あとがき?そもそも、それは必要なものなのか?

そんな疑問が頭をもたげなかったわけではない。けれど私はかつて「カモメのジョナサン」で、あとがきが世に与えた影響というものを覚えている。

結局のところあとがきとして必要なのは、作品を全面的に肯定する読者からの支持ではないかとその時に思った。そうでなければ、カモメの二の舞となる。諸外国では爆発的なヒット作でありながら国内ではそれほど評価されていないという現状を鑑みて、そんなことを思った。

天才は、その才能を全面的に支援してくれる凡才の徒により成り立つ。

これは最近になって本屋で買った本に書かれていた要点だ。確かに、と思うところが数多くある。

天才を殺すのは、その才能に嫉妬した秀才である。

この論にも大きく賛成だ。コツコツと積み上げてきた実績のある秀才からしたら、パッと出てドカンと花開く天才は嫉妬の対象であろう。しかも秀才だから頭がいい。頭がいい人間は自分を騙す術に長けていることが多い。そうして嫉妬であることを隠しながら、正論を重ねるようにして天才を削いでいく。

そんな時に天才を救えるのは、凡才と呼ばれる才能である。凡才が理解しきれない頭で、けれど心底から”良い”と思えば、その気持ちは隣にいる人の凡才に共鳴していく。鳴り響く凡愚の才、共感する力はあっという間に数を集め、そうして正論だらけの秀才を感情論で叩く。

要は、天才というものは誰もが持つ、閃きや天啓といったものがわかりやすいだろうか。赤子は皆、天才だという。何故なら、大人が考えもしない方法を思いつくままに表現する。そのひらめきが嫉妬されることがなく、周りにいる人を喜ばせる存在。そうしたところを指して天才だと言うのかもしれない。

世の大人は、大部分の人が秀才だ。特に日本という国においてはその傾向が強い。

小学校、中学校と9年間の義務教育があり、その後も多くの人がプラス4年間を学び舎で過ごす。学校という場所は、秀才を作りあげるところだ。間違っても天才を育てられる場所ではない。ましてや凡才など、卑下されてしまうことが多い。

そうした学校生活を10年前後つづけた国民が増えれば、秀才が幅を利かせる国家ができあがる。

彼らは天才を心の底では決して認めようとはしない。もしそれができる秀才がいるのだとしたら、その者は凡才を捨てずに来られた素晴らしい人なのかもしれない。

凡才の中でも秀でた才能は、共感し共鳴する力だ。そうした才能を捨てずにいられた者は、天才を見出し育てることさえ可能な特異な人物となる。

先にも書いたように、赤子のうちは誰もが天才である。長い学校生活を経てその天才は多くが日の目を見ないところへと押しつぶされていく。周りにいるのは、秀才を育てようとする秀才、育てられかけの秀才、どちらかしかいない。凡才を働かせれば「パーリーピーポー」と蔑むのも秀才だ。共感性や共鳴力などは取るに足りないと秀才は決めつける。

それでもごく稀に、生き残る凡才もいる。秀才として育てられながら、その内に凡才を秘めたままの者もいる。そうした彼らが狩られなかった天才を見出していくから世界は少しづつ進歩していく。

……秀才というものは変化に弱いから、天才の出現を恐れているのかもしれない。

こうした妄想に浸りながら、そうしてまた気がつくと、夜が更けていくわけで……

あとがき: 編集長

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