こころざし日記 5

夢と現実

 夢を叶えようと生きる限り、人はいつまでも若々しく清々しいようだ。

 笑顔が絶えることもなく、ときどきはムッとしたり、たまに涙したり、そんな感情の繰り返しが日々を彩っていく。

 年齢を重ねたとしても、そこは変わらない。成りたい自分があって、そうなろうと努力を重ねていける限りは。

 そうしたことを忘れてしまうからきっと、人は老いていくのかもしれない。そうならないために子供という存在は常に生まれ来て、同じ道を歩みながら、やがていつか僕らの少し先へと向かう。

 そんなことに今まで気がつかないで生きてきたのが、なんだかもったいないような気がしている。

夢のその先……

 積み上げていくということができれば、才能など無くても人は大成できるのだろう。故郷で幼馴染が店長をしていた、ラーメン屋さんを思い出してそんなことを考えていた。

 彼に才能がなかったわけではない。実際に食べに行って口に入れたラーメンは、他の店のどこにも負けない美味しさがあった。ギョーザも美味かった。専門店に負けないくらい美味しいと思えた。そしてそれらは、ラーメン店を出すまでの間にあっただろう苦労に耐えたからだと僕は思った。

 続けられるということは、耐えるということだ。嫌なことを我慢し、辛いことを耐え、面倒なことを続けていく。それができるということ自体がものすごい才能なのかもしれない。

 僕は我慢が効かない子供だった。嫌なことがあれば全力でそれを打破しようとあがき、辛いことは辛くないようにと変えていく行動を起こすことが多かった。面倒なことを続けていくなんてとんでもないとすら思っていた。面倒じゃないやり方を探そうと必死になって考え、続けることが楽しくなるように工夫をする方が好きだった。

 けれどそうした行為は、集団の中で活動しなければならないときに、周囲から強く反発を買うことが多い。それも特に、上に立つ人達からだ。彼らから見たら僕は、どうでもいいことに無駄に注力し、加えて周囲の人の考えを変えさせてしまう。そんな見られ方をされてしまえば、結局は大きな反発を買うのかもしれない。

 目をつけられたが最後、ようやくの思いで楽しく続けられるようになった業務から外され、より面倒で辛いことに従事させられていく。得意なことは全て取り上げられて、苦手なことに取り掛かるように言われ、胃の痛む思いをすることになる。

 そんなふうに、捉えてきてしまっていた過去の僕がいる。

 利用したがる人は多い。そう感じるほどに、こちらの甘さにつけこむような甘言やプレッシャーも様々な場所で感じていた。そうしてそういう人に対する反発が強すぎて、そうではなかっただろう人達に対しても同じだろうと決めつけてしまった。振り返って見たら、そんな節がいくつもある。

 戦うことに慣れてしまうと、通常の感覚から遠く離れていくと聞いたことがある。専門に特化すればするほど、専門外のことを知らなくもなる。だから冗談やなんかも理解できない頃が僕にもあったし、同じ場所で働く人たちに通じない常識も沢山あったような気がする。

 舞台での俳優活動を諦めなければいけなかった日から、二度と俳優活動はしまいと自分自身をそう縛り付けてきたのは、僕が自分へと課した自尊心からだ。それもきっと他の人には通じないものなんだろう。約束を反故にして、引き受けた代役をほぼ直前になってから断らなければいけなくなった。

 それくらいのことで、と思う人は思うのだろう。約束の一つや二つ、ごめんと謝ればいくらでも許してもらえると、そんなふうに思うのだろうか。

 現実に確かにそうしたことは多いのかもしれない。でも、僕にはそれはできなかった。だからたぶんこの先も、そうはできないんだろう。常にずっとあの時の、電話をかけて断った日のことが、フラッシュバックして悲しくなる。

自身を尊ぶ自尊心

 たぶん読んでいる人にもわからないだろう。この文章を書きながら、そんなことすら思いはじめている。けれど、なんでだろうか、書くことをやめることができないでいる。

 いつか僕の子供がこれを読む日が来て、そうしてあの子に何を伝えたいのかといえば、ひとえに自尊心の持ち方についてだろう。

 芯が強く、内側にとても強いものを持った子だと思う。中学に入るときに何気なく勧めた吹奏楽を、ついに6年間やり遂げようとしている。

 周りをよく見て、気遣うことの大切さを教え続けてきたら、学校ではいつの間にかずいぶんと多くの友達に囲まれているみたいだ。

 普段はぼんやりとしていることも多いが、それでもいつの間に思い描いたのか、自身の夢を追いかけようとしはじめている。親として反対すれば、しばらくは言われた通りに諦めたような顔をするんだろうが、きっと高校を卒業してその先で夢を追いかけようとしはじめそうだ。

 周囲の協力を得られないままに、独りきりで挑むにはちょいと危なげな夢だと思う。

 駄目だと言われたらきっと、かつての僕自身のように、周り中を敵と思いながら頑張るしかなくなるだろうと思えた。そうして少なからず上手くいけば、そこで得る自尊心はちょいとだけいびつなものになってしまうと思う。

 僕のそれが歪んでいるのだから、同じような道を行こうとすれば、きっと同じようになってしまうかもしれない。

 それが不安だ。

 幸いにして妻は、まともな部類に入る人だと思う。列に並んで買い物をするのも苦にしないし、人通りの多い所でイライラとしたりしない。車の渋滞に巻き込まれても平気な顔をして笑っていてくれる。

 だから妻がそうしていてくれる限りは、娘は僕みたいにはならないでくれると思う。きっとそうだろう、大丈夫だろう、そんなことを繰り返し思ったりもしている。

 僕は僕の歪な自尊心のおかげで、たぶんうつ病からも戻ってくることができたんだろう。だけどうつを発症した原因にも、この歪すぎる自尊心があるんじゃないかと不安にもなる。

 はぁ……。結局は何を伝えたいんだろうか。反面教師として、父ちゃんみたいにはなるなよ?ってことか?いやいや、それだと自尊心とか関係なくね?もっと俯瞰的な何かなのか……。ていうか、まとまりのない文章だなこれ。

 こうしてまた一日が過ぎていく。なんだかもったいなくて仕方ない。

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