The sky floor. Present Day. – The SKY #NamelessSky

THESKY-Jan 17 2018x40 -Jan 21 2018

The sky floor. Present Day.

The SKY #NamelessSky

Usual #life, Usual #work, Suddenly, look back. Peaks of mountains, Rumors of the trees, The horizon seen far away, #Cloud flow, blue #sky. They are very important. look up at the #NamelessSky#Relax #Timelapse #Nameless #Sky and #Cloud

--- " The SKY - Time lapse " produces relaxing movie. Our name is JUICY STUDIO. and We are engineer group from Japan. We started this channel with a simple vision: to Peace of mind a place that you can visit in order to relax & feel inspired. Let me know in the comments what you think!

All the movie on this channel is produced and copyrighted by me, JUICY STUDIO. - Hitoshi Katsumata.
All the music on this channel is copyrighted by Youtube Audio library.

Licensing/business: my movie is available for licensing. Please contact me at support@cocorozasi.net for more details.

Best wishes,

JUICY STUDIO.
- Hitoshi Katsumata.

--- produced :JUICY STUDIO. 株式会社 十志(JUICY LTD.) Hitoshi Katsumata.


Landscapes by Dustin Farrell – The SKY Timelapse

Landscapes: Volume 4K (UHD)

Dustin Farrell

For licensing and work inquires contact me at dustin@dfvc.com.
This copyright protected video is a compilation of individually shot clips.

上質な映画のワンシーンみたいなタイムラプス。

Dustin Farrell

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New York Christmas by 3motion_tv – The SKY Timelapse

New York Christmas 4k | 8k HDR

ニューヨークのクリスマス

4k, 8k, HDR … technology is developing rapidly - and so is time lapse and timelapse production. Which city could better fit as a place for that technical demo, if not Big Apple - New York 4k.

ニューヨークのクリスマスからはじまるタイムラプス。

3motion_tv

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Website: http://www.3motion.tv

 

SEASONS of NORWAY by Morten Rustad – The SKY Timelapse

SEASONS of NORWAY

SEASONS of NORWAY - A Time-Lapse Adventure in 8K

ノルウェーの四季という名のタイムラプス

With its imposing mountains, endless plateaus and echoing valleys, Norway is a country where nature takes the lead. Using time-lapse, this film attempts to capture the ebb and flow of the seasons and is a result of one year of planning, a second year of shooting and four months of editing.

雪解けの大地からはじまるタイムラプス。

Morten Rustad

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Pursuit by Mike Olbinski – The SKY Timelapse

Pursuit - A 4K storm time-lapse film

追及という名のタイムラプス

There is peace even in the storm.
Vincent Van Gogh

ゴッホの言葉からはじまると、あとはもう目を見張るばかりの動画。

Mike Olbinski

Blu-Ray discs available here: mikeolbinski.com/shop/
Music by Peter Nanasi, find his work here: https://peternanasi.bandcamp.com/
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心の理屈 第拾夜 – 幸せの法則

名前のない空を見上げて

僕らはこうして家族になっていく

名前のない空を見上げて

 日々、名前のない同じ空を見上げて
僕たちは一日一日と、家族になっていく

 毎日、名前のないそれぞれの空を見上げて
そうして毎日、同じ家に帰っていく

 血の繋がりなんていらない
価値観の違いなんて気にしない
僕らは家族なのだから

 日々、名前のない同じ空を見上げて
僕たちは一日一日と、家族になっていく

名前のない空を見上げて

日々同じ空

心の理屈 第玖夜 – 幸せの法則

善悪と聖魔

他人が定める善と悪、心のうちに育つ聖と魔

善悪と聖魔

 わが家には子がふたり(?)いる。お姉ちゃんのほうは、たいへん優しい子であまり我儘をいわない。ときおり自分だけの世界にひたってニコニコしているが話してみると善であり聖な感じの、いわゆる少女だ。弟の子はいたってマイペースな猫である。この子が自分のペースを優先しすぎるきらいのある魔であり、ときおり家族全員の嫌だなと感じるようなことをして気を引こうとする、悪であったりする。

 善であるか悪であるかを論じるのに、難しい物差しも法もいらない。その時その場で見聞きした人が、見たときに感じたまま「善きもの」であれば善で、「悪しきもの」であったなら悪となる。なので見聞きした人が多ければ多いほど善であり悪となる。その時にその場にいた人が全員一致で「善きこと」と判断すればそれは善であり、またその逆もある。善悪なんてそんなものだとそれくらいに理解したらいい。

 同じような表現で聖と魔があるが、こちらは他者には関わりようがないものだ。聖であるか魔であるかは、各々の心のうちのありようだからだ。

 目を閉じて自身の心を感じとったとき、光り輝くような温かさや優しさを感じるなら、それは聖なるものと言えるだろう。しかし多くの場合ドロドロとした感じや梅雨空のような感じを訴える人が少なくない。「それは魔に侵されているからだ」とでも言い出せば霊感商法やらオカルトな分野で商売が成り立つかもしれない。それほど現代社会に住む多くの人の場合、ストレスやらなんやかやで心に魔を住まわせている。

善悪と聖魔

善と悪は周囲の者が決めること。

 そんなわけでわが家の末っ子である猫は、彼以外の判定で善が一票、悪が二票とした位置にいる。…というか壁紙は爪とぎをしないでほしいし、その行いは悪と断じてほしいところだが、娘は頑なに弟をかばう。

 娘からすると、彼が壁紙で爪とぎをするのは、私たちが彼をあまりかまってあげないからだと主張する。それに対して父はこう主張する。かまってほしいからって賃貸住宅の壁紙をはがされたら退去するときにどんだけ費用がかさむと思ってんじゃコラー!…しかし言葉にしてみると、それはあまりに器の小さい言い分だ。

 そんなわけでもっぱら末っ子の世話を細君が引き受けることになるわけだが、その甘ったれぐあいに父は猫に嫉妬しはじめる。…そして最終的に悪のレッテルを張られるのは父である。猫好きにとってみれば猫はそのままで善であり、かわゆい愛おしい存在だと証明されていくのが日常である。…何かいてるんだかわからなくなっていく父。

善聖と善魔

 善なるか否かは、なので他者が決めるもの。となれば、その善は聖魔どっち?なんて思いつくあたりがおかしなものなんである。

 聖人と称される過去の偉人たちは、私たちに比べて何がどう違ったかといえば難しいのではないだろうか。プロパガンダ的に盛に盛られた聖人ともなると、それこそ人智を超えた奇跡を起こしてきた。しかしここで大事なのは、誰のためにその奇跡が起きたのか?

 多くの場合、生活や飢えに苦しむ人々を救おうと活躍し、その成果を実現した行いを聖なるものととらえ、他者が他者を聖と分類したのだ。善であり聖。しかしこのとき本当に聖を感じていたのは、救われた側の人々ではないだろうか。彼らの心に温かで優しい気持ち、希望に満ちて輝かしい思いが湧いたから、それをもたらしてくれた人に対して聖と冠を贈ったのかもしれない。

 善き行いをして人々に聖を感じさせられた者は、善聖となる。いわば西欧諸国でいうところの聖人と呼ばれる人たちかもしれない。

 それに対して、善き行いをしても人々に聖なる気持ちを感じさせられず、不快感や不満、その類の魔を感じさせてしまう人たちがいる。結果的には善行をしたと誰もが認めるのに、なんでかね?ここらは少し難しいところかもしんない。

 

 

聖なのか魔なのかなんて他人にはわからない。

 誰かにしてもらったことに対して、それを受ける側は、時間や回数が増えれば増えるほど贅沢になっていく。砂漠を数日間さ迷い歩きつづけ、ようやくのことでオアシスにたどり着いた旅人は、水一杯に聖を感じる。そしてその旅人がその地にとどまり、三日もすれば水一杯に対して感謝の念は薄れてしまうのが道理。さらに数か月かすれば、水の味に文句さえつけかねない。

 だからであろうか、古き時の権力者たちは人民を生かさず殺さずの状態にしておいて、ときおり祭りを催し日々を送らせる政策をとるものが多かった。日常が不便で不満に満ちるものであればこそ、ときおりの機会がそのはけ口になり、また原動力にもなる。

 以下  つづく

善なる魔と、悪とされる魔

心の理屈 第捌夜 – 幸せの法則

幸せの法則

いきすぎた独善と少なすぎる対話

幸せと不幸せについて

 幸せには法則がある。そんな寓話を聴いたのは、今からどれくらい前のことだろう?もう思い出せないくらい、昔のことのような気がする。

 そもそも不幸せってのは、幸せではないと書く。ではどんなものが幸せなのか?そこを考え出すとキリがないように思える。

 幸せというのは人によって様々だ。けれど多くの場合、求めるものがあればあるほど、それを手に入れようと頑張っている間は幸せを感じることが多いものだし、手に入れてしまえばそこがピークになり、その後少しづつ飽きていったりもする。手に入らないままそれが叶わないと諦めてしまえば、そこで幸せが否定され不幸を感じる。

 簡単にぶっちゃければ、青春期の恋なんかがわかりやすい。誰かに恋して振り向かせようと頑張っているときなんかは幸せだろう、振り向かせようとあれこれ考えたり行動にうつしている間は。

 そうしながらある時期、なんとなくまとまっていく。ああ、これ以上は振り向いてもらえないなと悟ってしまったり、この人じゃないなと気がついてしまったり。もちろん、相思相愛で決着がついたり。

 つまるところ何かを得ようと求める心が幸せを呼ぶんだと、ずいぶん昔に誰かから聴いた…ような気がする。

幸せの法則

求めるものと得られるもの

 求めて得られたときは、幸せだと云う。ただしそれを本当に心の底から望んで得られたものであるならば、との注釈がつく。

 誰かとの諍いのなかで相手に与えるのが嫌だからと無理矢理に手に入れたものは、手に入れたとたん手に余ることがある。その時に本当に求めたものは、争う相手の敗北なのかもしれない。それを得ようとすること自体が幼いものの考え方だと寓話は語る。誰かを負けさせるためにという目的で何かを得ようとすれば、不要なものばかりを抱え込み身動きがままならなくなる。誰かではなく自分を勝たせようとして何かを得ればそうはならないという。

 負かすためにではなく、勝つために。それは結果から見たらほとんど違いのないものに見えるかもしれない。結果的に勝てたならそれはそれでいいじゃん、と寓話のなかで愚かな役を担う者たちは語る。

 こういう話は話として聞いても、わからない人には本当にわからないものらしい。多くの人が、実際に体験してみないとそのことに気がつけずにいる。そうしていざ体験してみると多くが、勝つためではなく誰かを負かすために行動する。誰かは常に自分よりも弱い立場にいるものを、だ。

 求めるものを得るのにどんな違いがあるんだと、そうした人達は必ず同じことをうそぶく。そうしなければ得られやしなかった、とわかったように言う。しかし本当に得たかったものは得られてはいない。自分よりも弱いものからむしり取ることで、本当に得たかったものを持っているものと同じだと勘違いしたいのだろう。

 それが巡り巡って自分の不幸へとつながるというのに、わからないまま年を重ねて、子を成し、いくつかは子にも伝染し、いくつかは子に蔑まれ、そうしてなおわからぬまま変えようともしない。

個の熟成と全の調和

 自分さえよければいいと思って最初から他者を蔑む者は少ない。物心つくまでの間に、親からそう躾けられてしまった場合や、物心ついてのちにどこかでおかしな価値観にふれて伝染ってしまった場合以外には、ふつうは自分も大事なように身近な家族なども大事に思い、学校などで知り合う友人を大切に思い、好いて共に歩むツレなども大切にする。

 大切に思う人たちのなかで、持ちつ持たれつの関係に甘えていると、その外界にいる人たちのことにあまり関心をもたなくなることがある。

 寓話ではほとんどの場合、内にいる人たちの中だけで起こる喜劇や悲劇を題材にして語られることが多い。いくつかの寓話では、外界から恐ろしい敵がやってきて、それに抗うために内が協力しあい打ち倒すというのが基本ストーリーとなり、その派生として様々なものが語られている。

 昨今では、内輪でごたごたと協力し合えず、そのうちに裏切りも出て滅ぶ話や、外界から来たと思っていた敵が実は内輪の誰かの差し金だったりといった話は、陳腐ながら以外にうけが良い。騙しあいや探り合いを知的なゲームだとして位置付ける価値観があるからだろう。テーブルゲームであればこそ、知的なゲームだと納得もいくが、現実社会でそんなもの認めたら詐欺師こそ素晴らしいみたいになる。…まあ、少なからずそう思う輩がいるから振り込め詐欺なんかがなくなる気配ないんだろうが。

 個の成長に全体意識は不可欠なものなのかもしれない。そうしてその全体意識というのは、そこに調和がなければ個として抱きようもない。偏った全の中では個は個として抗う以外に道がないと考えるからだ。

 偏った全とは、調和を欠いた集団であり、ヒエラルキーが多断層となって下層へいけばいくほど個としての自由よりも全への奉仕を求められてしまうものだ。そこでは個は上層階を知ることも叶わない。あるいは知れたとして、しかし声などは届けようもない。

 調和のとれた全は、個が全体を見渡せる。個の声が全体に届きやすい仕組みを持っている。そうして全が個に奉仕する仕組みが多くあり、それを理解して個が育つ。個として熟成していく。

 

独善と対話

 幸せなんてものはうたかたのもので、けれどあぶくの様にはじけるまでの間は確かに、幸福感につつまれて天にも昇る気持ちでいられるものなのかもしれない。

 常に何かを追い求めて、それを得るための工夫や努力を惜しまずに繰り返し、もし仮に得られてしまったなら今度はその先に。あるいはまた別のものを。とここまで書いてなんだか浮気性の人を思い浮かべた。目が合えば惚れるという特異体質を自称するその者は、いつも常に獲物を狩るように恋する相手を探し求めていた。

 独り善がりなんだよ、と彼はいつもうそぶいていた。

 口達者な彼はいつも会うといろいろな楽しい話をしてきかせてくれた。と、彼と付き合ったことのある女性から話を聞けたことがある。のべつまくなしで話し続けて、一緒にいる間はずっと楽しくてしかたなかったそうだ。

 正直、その話を聞いてうらやましく思ったこともある。好いた女性を楽しませることができたらどれだけ幸せだったろうと。

 幸せというものを考える中で、対話は欠かせない。人が人と生きていくのであれば、必要最低限の会話ではなく、目と目を合わせていろいろなことを語り合う対話が、必要不可欠なんじゃないかと思うようになってきたからだ。

 俺は独り善がりだから

 そう言った奴の浮気の言い分は、好いて話して楽しかった相手が、いつの間にか何を話しても楽しくなくなっていって、そうしていると今度は別に話していて楽しい相手が見つかってしまうからだ。だった。

 首根っこ押さえて砂利だらけの地面に、その砂利がめり込むぐらいほっぺたを押さえつけられながら言い訳で言った。彼の良いところは嘘をつくことがなかったところで、それが逆に女性には悪いところだったのかもしれないが、信憑性のある言い訳だ。

 聞くが楽しくて対話にならなくなる。笑うばかりだったり、うなづくだけだったり。

 それならそうとまずは相手に伝えて、ああそうかと相手もそれに気づけば、後になってゴタゴタしなくても済んだだろうに。そう思ってさらに踏みつけた覚えがあるが、今思い返すとそれも理不尽だったかもしれない。

 楽しい会話しかしたがらない性格は、苦い話や面倒な会話をなかなか覚えようとも思わずに敬遠しつづけ、いい年になってもそういった話をどう切り出したらいいかわからずにいただけかもしれない。今更のことだが、そうだとしたらやれと言われてもできるわけがない。

 それでもそんなことを繰り返すうちに、刃傷沙汰や裁判訴訟なんかも経験し、今では遠い国で幸せに暮らしていると聞こえてくるのだから、人はおもしろい。

 あいつの場合、自分にも他人にも嘘をつくことがなかったというのが一番の決め手だったかもしれない。同じように会話を楽しめる伴侶を見つけて、次は子供らともそうして過ごしているとか。…反抗期に耐えられるかな?

 まあ、なにはともあれ。

幸せの法則

 幸せになるための法則というものがこの世の中には幾種類かあるそうだ。法則って言ったって難しいもんじゃない。連立方程式を解くよりも簡単で、多くの場合は日々の習慣を強制していくもののような気がする。あるいは心情的な法則を唱える人もいる。

 幸せになるためには、借り物の幸せを得ようと願っても満ち足りない。幸せなんてものは結局、個々の価値観によって違うものだから。

 だからまずは、自分を知ることがはじまり。そうしてそれは困ったことに、独りっきりじゃよくわからないものだ。

 なので自分を知るためには、誰か信頼できる友達が不可欠だろう。恋人でもいいが、多くの場合恋人は相手を傷つけまいとしてかよく思われたいと願ってか、嘘が混じる。口さがないくらい馬鹿正直な友人がここでは求められる素材のひとつだ。

 友人を得るためには対話は不可欠だ。口話でなくても文字のやりとりだって成立する。けれど、実際に行動を見られる相手でなければ、あまり意味がない。

 友人の目で見た自分と、自分が感じている自分と、それにあと必要なのが、それ以外の第三者からみた自分のイメージだ。

 よく知らない第三者は、表面的な自分をよく見て知っている。いわば第一印象というやつか。友人はそれよりももっと多く、言動を頼りに理解している。そうして表に出ている部分が理解できれば、自分の中にあるいろいろなものと照らし合わせて、自分が本当は何を得たいと願っているか理解しやすくなるだろう。

 独善だっていい。得たいものがわかったら、それを得られるように動き出せ。そうしたらその時から、幸せの中にいられる。