心の理屈 第玖夜 – 幸せの法則

善悪と聖魔

他人が定める善と悪、心のうちに育つ聖と魔

善悪と聖魔

 わが家には子がふたり(?)いる。お姉ちゃんのほうは、たいへん優しい子であまり我儘をいわない。ときおり自分だけの世界にひたってニコニコしているが話してみると善であり聖な感じの、いわゆる少女だ。弟の子はいたってマイペースな猫である。この子が自分のペースを優先しすぎるきらいのある魔であり、ときおり家族全員の嫌だなと感じるようなことをして気を引こうとする、悪であったりする。

 善であるか悪であるかを論じるのに、難しい物差しも法もいらない。その時その場で見聞きした人が、見たときに感じたまま「善きもの」であれば善で、「悪しきもの」であったなら悪となる。なので見聞きした人が多ければ多いほど善であり悪となる。その時にその場にいた人が全員一致で「善きこと」と判断すればそれは善であり、またその逆もある。善悪なんてそんなものだとそれくらいに理解したらいい。

 同じような表現で聖と魔があるが、こちらは他者には関わりようがないものだ。聖であるか魔であるかは、各々の心のうちのありようだからだ。

 目を閉じて自身の心を感じとったとき、光り輝くような温かさや優しさを感じるなら、それは聖なるものと言えるだろう。しかし多くの場合ドロドロとした感じや梅雨空のような感じを訴える人が少なくない。「それは魔に侵されているからだ」とでも言い出せば霊感商法やらオカルトな分野で商売が成り立つかもしれない。それほど現代社会に住む多くの人の場合、ストレスやらなんやかやで心に魔を住まわせている。

善悪と聖魔

善と悪は周囲の者が決めること。

 そんなわけでわが家の末っ子である猫は、彼以外の判定で善が一票、悪が二票とした位置にいる。…というか壁紙は爪とぎをしないでほしいし、その行いは悪と断じてほしいところだが、娘は頑なに弟をかばう。

 娘からすると、彼が壁紙で爪とぎをするのは、私たちが彼をあまりかまってあげないからだと主張する。それに対して父はこう主張する。かまってほしいからって賃貸住宅の壁紙をはがされたら退去するときにどんだけ費用がかさむと思ってんじゃコラー!…しかし言葉にしてみると、それはあまりに器の小さい言い分だ。

 そんなわけでもっぱら末っ子の世話を細君が引き受けることになるわけだが、その甘ったれぐあいに父は猫に嫉妬しはじめる。…そして最終的に悪のレッテルを張られるのは父である。猫好きにとってみれば猫はそのままで善であり、かわゆい愛おしい存在だと証明されていくのが日常である。…何かいてるんだかわからなくなっていく父。

善聖と善魔

 善なるか否かは、なので他者が決めるもの。となれば、その善は聖魔どっち?なんて思いつくあたりがおかしなものなんである。

 聖人と称される過去の偉人たちは、私たちに比べて何がどう違ったかといえば難しいのではないだろうか。プロパガンダ的に盛に盛られた聖人ともなると、それこそ人智を超えた奇跡を起こしてきた。しかしここで大事なのは、誰のためにその奇跡が起きたのか?

 多くの場合、生活や飢えに苦しむ人々を救おうと活躍し、その成果を実現した行いを聖なるものととらえ、他者が他者を聖と分類したのだ。善であり聖。しかしこのとき本当に聖を感じていたのは、救われた側の人々ではないだろうか。彼らの心に温かで優しい気持ち、希望に満ちて輝かしい思いが湧いたから、それをもたらしてくれた人に対して聖と冠を贈ったのかもしれない。

 善き行いをして人々に聖を感じさせられた者は、善聖となる。いわば西欧諸国でいうところの聖人と呼ばれる人たちかもしれない。

 それに対して、善き行いをしても人々に聖なる気持ちを感じさせられず、不快感や不満、その類の魔を感じさせてしまう人たちがいる。結果的には善行をしたと誰もが認めるのに、なんでかね?ここらは少し難しいところかもしんない。

 

 

聖なのか魔なのかなんて他人にはわからない。

 誰かにしてもらったことに対して、それを受ける側は、時間や回数が増えれば増えるほど贅沢になっていく。砂漠を数日間さ迷い歩きつづけ、ようやくのことでオアシスにたどり着いた旅人は、水一杯に聖を感じる。そしてその旅人がその地にとどまり、三日もすれば水一杯に対して感謝の念は薄れてしまうのが道理。さらに数か月かすれば、水の味に文句さえつけかねない。

 だからであろうか、古き時の権力者たちは人民を生かさず殺さずの状態にしておいて、ときおり祭りを催し日々を送らせる政策をとるものが多かった。日常が不便で不満に満ちるものであればこそ、ときおりの機会がそのはけ口になり、また原動力にもなる。

 以下  つづく

善なる魔と、悪とされる魔

心の理屈 第捌夜 – 幸せの法則

幸せの法則

いきすぎた独善と少なすぎる対話

幸せと不幸せについて

 幸せには法則がある。そんな寓話を聴いたのは、今からどれくらい前のことだろう?もう思い出せないくらい、昔のことのような気がする。

 そもそも不幸せってのは、幸せではないと書く。ではどんなものが幸せなのか?そこを考え出すとキリがないように思える。

 幸せというのは人によって様々だ。けれど多くの場合、求めるものがあればあるほど、それを手に入れようと頑張っている間は幸せを感じることが多いものだし、手に入れてしまえばそこがピークになり、その後少しづつ飽きていったりもする。手に入らないままそれが叶わないと諦めてしまえば、そこで幸せが否定され不幸を感じる。

 簡単にぶっちゃければ、青春期の恋なんかがわかりやすい。誰かに恋して振り向かせようと頑張っているときなんかは幸せだろう、振り向かせようとあれこれ考えたり行動にうつしている間は。

 そうしながらある時期、なんとなくまとまっていく。ああ、これ以上は振り向いてもらえないなと悟ってしまったり、この人じゃないなと気がついてしまったり。もちろん、相思相愛で決着がついたり。

 つまるところ何かを得ようと求める心が幸せを呼ぶんだと、ずいぶん昔に誰かから聴いた…ような気がする。

幸せの法則

求めるものと得られるもの

 求めて得られたときは、幸せだと云う。ただしそれを本当に心の底から望んで得られたものであるならば、との注釈がつく。

 誰かとの諍いのなかで相手に与えるのが嫌だからと無理矢理に手に入れたものは、手に入れたとたん手に余ることがある。その時に本当に求めたものは、争う相手の敗北なのかもしれない。それを得ようとすること自体が幼いものの考え方だと寓話は語る。誰かを負けさせるためにという目的で何かを得ようとすれば、不要なものばかりを抱え込み身動きがままならなくなる。誰かではなく自分を勝たせようとして何かを得ればそうはならないという。

 負かすためにではなく、勝つために。それは結果から見たらほとんど違いのないものに見えるかもしれない。結果的に勝てたならそれはそれでいいじゃん、と寓話のなかで愚かな役を担う者たちは語る。

 こういう話は話として聞いても、わからない人には本当にわからないものらしい。多くの人が、実際に体験してみないとそのことに気がつけずにいる。そうしていざ体験してみると多くが、勝つためではなく誰かを負かすために行動する。誰かは常に自分よりも弱い立場にいるものを、だ。

 求めるものを得るのにどんな違いがあるんだと、そうした人達は必ず同じことをうそぶく。そうしなければ得られやしなかった、とわかったように言う。しかし本当に得たかったものは得られてはいない。自分よりも弱いものからむしり取ることで、本当に得たかったものを持っているものと同じだと勘違いしたいのだろう。

 それが巡り巡って自分の不幸へとつながるというのに、わからないまま年を重ねて、子を成し、いくつかは子にも伝染し、いくつかは子に蔑まれ、そうしてなおわからぬまま変えようともしない。

個の熟成と全の調和

 自分さえよければいいと思って最初から他者を蔑む者は少ない。物心つくまでの間に、親からそう躾けられてしまった場合や、物心ついてのちにどこかでおかしな価値観にふれて伝染ってしまった場合以外には、ふつうは自分も大事なように身近な家族なども大事に思い、学校などで知り合う友人を大切に思い、好いて共に歩むツレなども大切にする。

 大切に思う人たちのなかで、持ちつ持たれつの関係に甘えていると、その外界にいる人たちのことにあまり関心をもたなくなることがある。

 寓話ではほとんどの場合、内にいる人たちの中だけで起こる喜劇や悲劇を題材にして語られることが多い。いくつかの寓話では、外界から恐ろしい敵がやってきて、それに抗うために内が協力しあい打ち倒すというのが基本ストーリーとなり、その派生として様々なものが語られている。

 昨今では、内輪でごたごたと協力し合えず、そのうちに裏切りも出て滅ぶ話や、外界から来たと思っていた敵が実は内輪の誰かの差し金だったりといった話は、陳腐ながら以外にうけが良い。騙しあいや探り合いを知的なゲームだとして位置付ける価値観があるからだろう。テーブルゲームであればこそ、知的なゲームだと納得もいくが、現実社会でそんなもの認めたら詐欺師こそ素晴らしいみたいになる。…まあ、少なからずそう思う輩がいるから振り込め詐欺なんかがなくなる気配ないんだろうが。

 個の成長に全体意識は不可欠なものなのかもしれない。そうしてその全体意識というのは、そこに調和がなければ個として抱きようもない。偏った全の中では個は個として抗う以外に道がないと考えるからだ。

 偏った全とは、調和を欠いた集団であり、ヒエラルキーが多断層となって下層へいけばいくほど個としての自由よりも全への奉仕を求められてしまうものだ。そこでは個は上層階を知ることも叶わない。あるいは知れたとして、しかし声などは届けようもない。

 調和のとれた全は、個が全体を見渡せる。個の声が全体に届きやすい仕組みを持っている。そうして全が個に奉仕する仕組みが多くあり、それを理解して個が育つ。個として熟成していく。

 

独善と対話

 幸せなんてものはうたかたのもので、けれどあぶくの様にはじけるまでの間は確かに、幸福感につつまれて天にも昇る気持ちでいられるものなのかもしれない。

 常に何かを追い求めて、それを得るための工夫や努力を惜しまずに繰り返し、もし仮に得られてしまったなら今度はその先に。あるいはまた別のものを。とここまで書いてなんだか浮気性の人を思い浮かべた。目が合えば惚れるという特異体質を自称するその者は、いつも常に獲物を狩るように恋する相手を探し求めていた。

 独り善がりなんだよ、と彼はいつもうそぶいていた。

 口達者な彼はいつも会うといろいろな楽しい話をしてきかせてくれた。と、彼と付き合ったことのある女性から話を聞けたことがある。のべつまくなしで話し続けて、一緒にいる間はずっと楽しくてしかたなかったそうだ。

 正直、その話を聞いてうらやましく思ったこともある。好いた女性を楽しませることができたらどれだけ幸せだったろうと。

 幸せというものを考える中で、対話は欠かせない。人が人と生きていくのであれば、必要最低限の会話ではなく、目と目を合わせていろいろなことを語り合う対話が、必要不可欠なんじゃないかと思うようになってきたからだ。

 俺は独り善がりだから

 そう言った奴の浮気の言い分は、好いて話して楽しかった相手が、いつの間にか何を話しても楽しくなくなっていって、そうしていると今度は別に話していて楽しい相手が見つかってしまうからだ。だった。

 首根っこ押さえて砂利だらけの地面に、その砂利がめり込むぐらいほっぺたを押さえつけられながら言い訳で言った。彼の良いところは嘘をつくことがなかったところで、それが逆に女性には悪いところだったのかもしれないが、信憑性のある言い訳だ。

 聞くが楽しくて対話にならなくなる。笑うばかりだったり、うなづくだけだったり。

 それならそうとまずは相手に伝えて、ああそうかと相手もそれに気づけば、後になってゴタゴタしなくても済んだだろうに。そう思ってさらに踏みつけた覚えがあるが、今思い返すとそれも理不尽だったかもしれない。

 楽しい会話しかしたがらない性格は、苦い話や面倒な会話をなかなか覚えようとも思わずに敬遠しつづけ、いい年になってもそういった話をどう切り出したらいいかわからずにいただけかもしれない。今更のことだが、そうだとしたらやれと言われてもできるわけがない。

 それでもそんなことを繰り返すうちに、刃傷沙汰や裁判訴訟なんかも経験し、今では遠い国で幸せに暮らしていると聞こえてくるのだから、人はおもしろい。

 あいつの場合、自分にも他人にも嘘をつくことがなかったというのが一番の決め手だったかもしれない。同じように会話を楽しめる伴侶を見つけて、次は子供らともそうして過ごしているとか。…反抗期に耐えられるかな?

 まあ、なにはともあれ。

幸せの法則

 幸せになるための法則というものがこの世の中には幾種類かあるそうだ。法則って言ったって難しいもんじゃない。連立方程式を解くよりも簡単で、多くの場合は日々の習慣を強制していくもののような気がする。あるいは心情的な法則を唱える人もいる。

 幸せになるためには、借り物の幸せを得ようと願っても満ち足りない。幸せなんてものは結局、個々の価値観によって違うものだから。

 だからまずは、自分を知ることがはじまり。そうしてそれは困ったことに、独りっきりじゃよくわからないものだ。

 なので自分を知るためには、誰か信頼できる友達が不可欠だろう。恋人でもいいが、多くの場合恋人は相手を傷つけまいとしてかよく思われたいと願ってか、嘘が混じる。口さがないくらい馬鹿正直な友人がここでは求められる素材のひとつだ。

 友人を得るためには対話は不可欠だ。口話でなくても文字のやりとりだって成立する。けれど、実際に行動を見られる相手でなければ、あまり意味がない。

 友人の目で見た自分と、自分が感じている自分と、それにあと必要なのが、それ以外の第三者からみた自分のイメージだ。

 よく知らない第三者は、表面的な自分をよく見て知っている。いわば第一印象というやつか。友人はそれよりももっと多く、言動を頼りに理解している。そうして表に出ている部分が理解できれば、自分の中にあるいろいろなものと照らし合わせて、自分が本当は何を得たいと願っているか理解しやすくなるだろう。

 独善だっていい。得たいものがわかったら、それを得られるように動き出せ。そうしたらその時から、幸せの中にいられる。

 

 

心の理屈 第漆夜

心の糧

心の糧になるものと言えば、涙だったり怒りだったり。

心の糧

 いつもご覧いただきありがとうございます。心の理屈 第漆夜「心の糧」をはじめさせていただきます。少々つたない表現やわかりにくい言い回しなどがあるかと思いますが、そこは「目で見るんじゃない、心で感じとるんだ。」的な受け取り方をしていただけるとたいへん助かります。

 そうしましたら今回のテーマですが、心の糧について、簡単に概要を書かせていただきたいと思います。みなさまどうぞ楽な姿勢でお付き合いいただけると幸いです。

 まず最初に、心の糧と聞いて思い浮かべるものはなんでしょうか?

 糧と言えば白いお米!という方はもうそろそろ還暦が近いか越えた方かと思われます。糧の意味じたいは間違ってはいませんし、人によっては本当に白いお米が心の糧だったという人もいらっしゃたようです。

 今夜はそんなお話をつらつらと書き流してまいります。

心の糧

成長の素材となるを糧という。

 生きているだけで人の人生というものは、まさにいろいろなことがおこるわけで、私事でいえば20代くらいの頃には、それはそれはイケてると言われていたこともあったかもしれないというくらいの者が、それから数十年をへて、今やそこらを歩いたところで誰からも見向きもされなず、なぜかノラ猫にはエサをよこせとなつかれる、といったようなそんな変化もございます。

 なんのことだかわからない?そりゃそうだ。わかるように話していないのだし。そもそもわかるように話したらそこらじゅうでひっくり返るやからが大勢でてきてしまうのだから、そこは汲んで飲み干しなさいっていう話ですよ。

 でもって本題の、心の糧というものについての話になるわけだが、これについてもあんまり詳しくわかりやすくは、たぶんできない話でございます。

 なんでかって?

 誰にだって同じように時間がながれて、同じように変化する機会があるっていうのに、そこらを見ればどうしたもんだか、一生懸命に生きた人たちの変化をねたむやつはいるわ、逆恨みするやつはいるわ。そんなだから作り話にでもしないとどこにどう迷惑がかかるかもしれない。そういうのはもうたくさんなんですよ。

糧の獲り方と摂り方

 逆恨みや妬みってのは、本来なら大人になって分別ができてからひっそりと覚えていくような心のはずなんですが、どうもこの十数年というもの、どこでどう間違えちゃったのか、そういう分別もなしに社会へポンとほおりだされて、そうして結婚したりしなかったりで子供ができて、できちゃった子供が成長する中で目の前で親がそうするもんだから、それが良いか悪いかもわからないで、自分よりいい生活をしている人を妬む、羨む、そして逆恨む、なんてことが多くなっているような気がします。

 昔の決まり文句に『親の顔がみたいわ!』ってのがありました。昔も今も大差ないとは思いますが、親の顔見たってなにがわかるわけもない!わかるわけもないのだけれど、要は「親がまともに教えてくれなかったからそんなふうになっちゃったんだろう」的な決めつけの文句です。

 この台詞、言うやつがいたら本気で怒っちゃって切れてぼろくそに言い倒したくなるくらい嫌いなんですが、言われちゃうほうもほう。言わせないようにしなきゃとか考えたほうがいいと思います。自分が気にしなくても、周りで聞いている人の中に私みたいなのがいたら、それこそ大ごとになりかねないので本当にお願いします。

また脱線しまくっていますが、お気になさらずに。書いてる本人が気にしていないのですから、気にしたら負けですよ♡

 基本的に、この「心の理屈」はタイトルで完結しています。ですので書かれている内容について頭を巡らせても、疲れるか呆れるかのほうが多いと思われます。

 くわしく説明ができる人間と、できない人間の差はどこにあるのかというと、説明できる人間は一生懸命に努力して身につけたり覚えた人です。できないのはそうした努力をほとんど必要とせずに、できちゃった人なんです。…あと、できないくせに説明だけ覚えたって人もいますのでお気を付けください。

 心の糧を得ようと思ったら、そうしたことも全部ふくめて、一度まるっと吞み込んで消化しようとすることです。嫌なことも、苦手なことも、つらいことも、悲しいことも、全部。

 そうしてそういうのを全部食べ終えてのちに、何も食べられないような苦難がやってきてペコペコにおなかを空かせてみたら、その後で経験するできことは、それがどんなものであっても、素晴らしい喜びに満ちたものになるでしょうから。

 一生懸命に努力して身につけてきた人は、その技術や経験をなによりも宝物としています。それを横から突き崩すような仕組みがそこかしこにできあがってしまい、質をどんどん下げはじめています。

 こんなが、望んだ未来だったんですかね?

 そうじゃないと思うのなら、回顧主義にとりつかれるのではなくて、問題をしっかりと見極めていかなきゃいけません。

 

 ・・・て、なんの話だ?

 

 よろしくはありませんが、おあとがよろしいようで。。。

 

 

心の理屈 第陸夜

心とお金

心を迷わせる一番といえば、お金か、異性か。

心とお金

 いつもご覧いただきありがとうございます。心の理屈 第陸夜「心とお金」をはじめさせていただきます。少々つたない表現やわかりにくい言い回しなどがあるかと思いますが、そこは「目で見るんじゃない、心で感じとるんだ。」的な受け取り方をしていただけるとたいへん助かります。

 そうしましたら今回のテーマですが、心とお金について、簡単に概要を書かせていただきたいと思います。みなさまどうぞ楽な姿勢でお付き合いいただけると幸いです。

 まず最初に、心とお金と聞いて思い浮かべるものはなんでしょうか?

 お金に惑わされて、とち狂った行いをする人は少なくはありません。お金じたいはただの紙切れで、発行元となる団体によってその力を付加されているわけです。日本の場合は、日本国銀行券と紙幣に書かれている通り、国そのものが発行元となっています。

 今夜はそんなお話をつらつらと書き流してまいります。

心とお金

お金は天下の回りモノ

 昔々、あるところにお金さんという名のおばあさんがいました。お金さんはいっつもニコニコしていて、村の人気者でした。

 ある日のことでした。お金さんが自分の家でわらを編み草鞋をつくっていると、村の仲間のお銀さんと呼ばれているおばあさんがやってきました。お銀さんはいっつも怒ったような顔をしていて、村ではお金さんくらいしか友達がいません。来て早々に、お銀さんはお金さんにこう言いました。

「お金さん、お金さん、なんであんたはいつも笑ってるんだい?」

 するとお金さんはこう答えました。

「笑ってなんかいないずらよ。これは地顔がこうなんだ。」

「ほうなのけ、いいなあ、お金さんは。私も地顔が怒っているだけなんだけど、まわりからはいっつも怒ってる、怒ってるって言われて、嫌われてしまうんだ。」

「そんなことねえべ。あたしゃ、お銀さんのこと大好きだぁよ。」

 お銀さんは、お金さんがそう言ってくれたことに嬉しくなって、顔が真っ赤になりました。

「そう言ってくれるんはお金さんだけだあ。んでも、うれしいなあ。」

金の切れ目が、縁の切れ目

 お金さんとお銀さんのお話は、まだまだ続くんですが、ここで少し思ったことを書いてみます。

 昔話に出てくる登場人物たちは、大抵が自給自足の暮らしをおくっているようです。昔はそれが当たり前だったからでしょうか。それでいて、例えば桃太郎に出てくるお爺さんとお婆さんなんかは、ずいぶん充実した日々をおくっているなと思ったりもします。

 柴刈りに出かけて、生活の火元となるたきぎにしていたり、洗濯ができるくらいきれいな川が近くに流れていたり。おそらく食い扶持も自分たちで、畑を耕したり、山菜や果物を採ってきたり、魚を獲ったりしていたんだろうと思います。

 今のようにテレビや雑誌など、どこか遠くのできごとを伝える情報がないわけですから、家にいてすることと言えば、夫婦の会話くらいしかなかったろうと思います。毎日話す話しは、その日に互いに見聞きしてきたこと。それだけで満足できるような人たちだったからこそ、昔話に語られるのかもしれないとそう思ったのです。

 することがあって、互いに支えあいながら毎日が過ぎていき、ときたまどちらかの体調が悪い時なんかは、もう一方が補うことができる程度の責任だったろうと想像してしまいます。

 現代とはほど遠い、昔々の幸せのカタチなんでしょうかね。

悪銭身に付かず

 すでにお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、今回は各文のタイトルに、お金にまつわることわざを入れてみました。他にも「入るを量りて出ずるを為す」などの、今でも十分に役に立つことわざもあるのですが、ときどき、これなんのこっちゃ?と思わされるものもあります。

 阿弥陀の光も銭次第

 阿弥陀といえば、仏教でいうところの仏さま。本職の住職などにこんなことを言うと、「何を言ってるんだコラ!」と大仰に叱られるのは間違いないと思いますが、しかたありません。だってことわざであるんだから。

 案じてたもるより銭たもれ

 心配をしてもらえるのはうれしいんだけど、ちょっと心配し過ぎでウザったい。なんて親がいる子が言いそうなことわざ。ご年配の方々には「同情するなら金をくれ!」のドラマが強すぎてそっちのふうにとられるかもしれませんね。どっちにしたって、口ばっかり出されるよりは、案じているのなら行動で示してほしいという思いは誰にでもあると思います。

 一押し二金三男

 これは今とずいぶん変わっただろうなと思います。女性を口説くときの優先順位らしいのですが、一番に押しの強さっていうのは…どうなんでしょうね。草食系の男子に聞いてみたいですね。ちなみに二番目がお金で、三番目に男前だそうです。そこらは今でもそうかもしれませんね。

 とまあ、お金がいろいろな場面でハチメンロッピな活躍をしてきたわけです。これだけいろいろなことに関わっていたら、そりゃ中にはお金に心を振り回される人がでてきたってしかたないとも言えます。

有る時払いの催促なし

 心の試金石ともいえる、お金についてを細々と語らせていただきました第陸夜。ご覧いただきどのような感想を持たれたでしょうか。

 お金は稼がなきゃ生活できない。生活ができないと、夢や幸せなんかを実現することもままならない。多くの人がそう考えて、日々を一所懸命おくっていると信じます。

 もしよろしければ、コメント欄、もしくはSNSなどでご意見やご感想をいただけると嬉しく思います。

 

 心とお金。お金の力に振り回される人と、そうではない人がいます。振り回されてしまう人は、一度おちついて誰かに相談するほうがいいのかも。…そんなこんなで、心の理屈とあいなります。

心の理屈 第伍夜

心の迷いと確信

迷えば迷うほど、信じるに足りるものが増えていくもの。

心の迷いと確信と

 いつもご覧いただきありがとうございます。心の理屈 第伍夜「心の迷いと確信」をはじめさせていただきます。少々つたない表現やわかりにくい言い回しなどがあるかと思いますが、そこは「目で見るんじゃない、心で感じとるんだ。」的な受け取り方をしていただけるとたいへん助かります。

 そうしましたら今回のテーマですが、心の迷いと確信について、簡単に概要を書かせていただきたいと思います。みなさまどうぞ楽な姿勢でお付き合いいただけると幸いです。

 まず最初に、心は迷います。それについては誰も異論はないだろうと思いますが、昨今はときおり「私は迷うことなんてありません。」と言い放つ方々にお会いすることがあります。

 迷わないのではなくて、確信できるものばかりがそろった「箱庭」から、外へ出ようとされていないのでは?と、思うのですがなかなかそうとは言葉に出せません。裸の王様じゃないんですから、ほぼ初対面の方にそんなことを面と向かって言えば、どうとられるかわかったものじゃありません。

迷いと確信

迷いの路へはいりこむとき

 迷いの路は、未知の世界に入り込んだ時には必ずあります。そこに一歩でも踏み込むと、それまであった自信は揺らぎますし、自信の上にあった態度も変わります。そうして心は右へ左へと迷いながら学ぶ機会を得ます。

 ここで、しかしそれまでの生活の中で、概要で少しだけふれました「箱庭」にいた方の心は、よくある決断をしはじめます。これまで迷うことなんてあまりなかったわけですから、その迷っている状況が心地悪いんでしょう。「知ったかぶり」や「横柄な態度」にでるならまだかわいいものですが、時としてものすごく攻撃的になる方もいらっしゃるようです。

 迷っているのになんで攻撃的になるの?と思われるかもしれません。これをお読みのあなたが普通の方であれば、迷ったときに誰かを攻撃しようなんて気はおきないのが普通かと思われます。けれど、ずっと小さな世界で我が物顔で月日を過ごしてきた人にとってみれば、迷いなどこれまでありえないできごとなのです。そんな自分自身を周りに見せたくなくて、それで攻撃的になるのはお分かりいただけるでしょうか。

 こうして迷いの路にはいりこんだ心は、しばらくは何をどうしたらいいのかさえ考えられず、時だけが流れていきます。

 

出口を探すか、そこで諦めて助けを待つか

 さて、あなたは迷路を体験したことはありますか?もしあるようでしたら、迷路に入ってすることは何なのか思いつくでしょう。心がはいりこむ迷いも同じです。迷ったらその出口を探して、歩きはじめなければいけません。

 あるいは、迷路を実際に体験した時に、どうしても出口がわからないで係員さんに助けを頼んだことはありませんでしょうか。心の迷いにも同じことがあります。自分の力だけではどうにもできなくなった時には、誰かの助けを待つほうが賢明なことがあります。無理矢理に突き進んで、わけのわからないままより深い迷宮へと堕ちていくのは、あまりお勧めの人生ではないと思います。

 迷路であれば、進むにしろ、助けを待つにしろ、いずれにしてもまずはその場所の情報を得ることが先ですよね。心が迷っているときは、同じような迷いを体験した人から、ことのあらましについて教えを請うたり、知識のある人に迷いの外側をとりまく状況や景観を教わるのも大事です。

 …で、そういう人の心につけこんで、おかしな宗教とかセミナーなんかが商売をしているんですよね。おっかないもんです、日本って国は。

信じられること

 迷いの路を抜けると、そこまでの間にいくつかの「信じられること」を手に入れることができると思います。これは、実際の迷路なんかではなかなか手に入れられないものですよね。

 手に入れた「信じられること」をもって、また次の迷いに挑戦していく。そういう人はそう遠くない将来に、確たる信じられることを手に入れられると思います。

 確信できることが一つでも得られると、人はそこで本当の強さのひとつを手に入れることができたと言えます。

 そうしてこの確信は、一つだけでいいやと遠慮する必要はないのです。二個でも三個でも、欲しいだけ得られる、人生の宝のひとつだと言えます。…ちなみにいくつ手に入れたとしても、確信じたいはプライスレスです。誰かが売ってくれるって言って、何か確信めいたものをちらつかせたとしたら、その時は鼻で笑ってあげてください。むしろへそで茶を沸かしてもいいかもしれません。

 確かな信は、ひとりひとりに違うもの。

 こんな当たり前のことも、いつの間にかバブルと一緒にはじけてしまったんでしょうかねぇ。このところ情報商材にきな臭いものが増えすぎてしまっていて、ちょっと不安を感じてしまいます。

確信を増やす

 心をかたちづくる大きな部分として、迷いと確信を語らせていただきました第伍夜。ご覧いただきどのような感想を持たれたでしょうか。

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 心の迷い。確信を得るために必要なラビリンス。いくつ踏破したかも、どれほどの迷宮をさまよったかも、どちらもとるに足りない小さなこと。その迷いの先で何を確信したか?それが人生のなかで大事な宝物のひとつかと私は思います。…そんなこんなで、心の理屈とあいなります。

心の理屈 第肆夜

心の知と理

喜怒哀楽で育った心は、独自の知を蓄えてゆく。

心の知と理

 いつもご覧いただきありがとうございます。心の理屈 第四夜「心の知と理」をはじめさせていただきます。少々つたない表現やわかりにくい言い回しなどがあるかと思いますが、そこは「目で見るんじゃない、心で感じとるんだ。」的な受け取り方をしていただけるとたいへん助かります。

 そうしましたら今回のテーマですが、心の知と理について、簡単に概要を書かせていただきたいと思います。みなさまどうぞ楽な姿勢でお付き合いいただけると幸いです。

 まず最初に、心は感情が育てる、と前回までの三夜でかたらせていただきました。…戻って確認とか、粋じゃないことはなしにしてください。とりあえずそういうことで四夜をはじめさせてくださいな。

 泣いて、笑って、怒って、楽なときもあって、そういう日々が次第に心を育てます。では、心ってなんでしょうね?というのが四夜のあらすじです。

 どうぞ最後までお付き合いください。

 

感情と心

知と理

 心の一角を占めるのは、知性と理性です。とはいっても、学校などで言われる知性であったり理性という言い方は、なんとなく上澄みを汲んで使われているような気がしてしかたないので、ここでは知と理という言い方で考えていきたいと思います。

 知とは、そのまんま字面で考えたら要は知識のことを言います。知識にはいいもわるいもないもので、例えば漫画を見て覚えたものも、人から聞いて覚えたものも、テレビで芸人がみせるネタから覚えるものも、高尚な書物から覚えたものも、教室で先生に教わったものも、区別なく知として考えてください。

 これらの知の中で、じゃあ心が最優先に蓄えて保存しておきたがるのはなんでしょう。おそらく感情に強く響いたものを最優先するのだと思われます。悲しいできごとや、大笑いしたこと、激しく怒ったことなんかはよく記憶に残りますよね。

 そして理とは、そうして蓄えられた知の中から、心が導き出す自分だけの「理想」だと考えてください。

 まずはこれが大前提になります。

結局のところ人は楽に流されるのはなぜか?

 なんででしょうかね。私もそうですが、多くの人は楽に流されます。喜怒哀楽とした感情の中で、楽なときの記憶ってあまり残らないことが多いんですよね。けれど喜に似た楽しいはよく覚えている。

 ここで大事なのは喜と楽しいは似ているというところです。なので、喜怒哀楽の楽は、楽しいほうの楽ではなく、楽なほうのラクで考えていきます。

 よく人は楽に流されるといいます。それはなぜかと言えば、ぶっちゃけた話、面倒ごとが多いよりも手間も少なくより沢山を得られるほうがいい、と考える心の人の絶対数が多いからに他なりません。数が多いから、同じように楽に流される人も多い、というわけです。

 けれど楽があるからこそ頑張れる人も一息つけるわけで。24時間体制で寝る間も緊張感が半端ないところにいたら、人の心はバランスが壊れます。そうしてバランスを失うと心の病を患ったりもします。

 そうなる前に、楽に流されるのが息抜きにもなるし、他者との交流にもなり、心が病まずにすむ一番の方法だと思うのですが、頑張りたい人はなかなかそうはいかなかったりもするんですよね。…と、余談でした。

蓄積された知と、そこから導き出された理

 人工頭脳AIの場合にも似たようなことが起きていると聞きますが、人は溜め込んだ知をもとに、そこから自分だけの理をつくりあげていきます。ここでいう理とは、独自の理論だったり、独自の理屈だったり、独自の理想だったりを総合して言っています。

 独自のというところがミソで、この時点ではまだ世間一般でいうところの理性にはちょっとばかし足りない感じがします。書物から借りてきただけの知をもとにしていると、体験で得られるはずの感情の喚起が足りず、どこか口先だけのきれいごとに聞こえたりするような感じ、といえばなんとなくわかるでしょうか。

 とにもかくにもそうして組み上げられていく理は、最初のうちは脆いようです。これに強度を与えてくれるのは、他者の賛同と共感。同じような知をもとに似たような理を組み立てている仲間と出会うと、理は独自から解放されます。そして共有されることでより強く、より大きくなっていきます。

 ここで、心の許容量を超えた理に触れてしまうとこれまた心はバランスを失ってしまうようです。体感しようがない理があったら、怖気づくのが普通です。怖気づいたらそのまま逃げだすほうが正解なのに、逃げ出さないでいるとその理に呑まれてしまいます。呑まれたままでいれば、どこぞの洗脳された方々と変わりありません。さっさと距離を置いて、いったん独自の理へ帰るのが良いです。

心の知と理

 心をかたちづくる大きな部分として、知と理を語らせていただきました第四夜。ご覧いただきどのような感想を持たれたでしょうか。

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 心の知。良いも悪いも分け隔てなく、五感を通じて得た情報を、感情の度合いで優先度を決め蓄えていくもののようです。少したくわえができれば、それをもとに理を組み立てる。…心の理屈とあいなります。

心の理屈 第参夜

優しい心と強い心

心が強いということと、優しいということの違い。

優しさについて

 心が優しいね。そう言われるとき、ほとんどの場合は何かを「許す」ことではじまる。「許容」されたと感じたとき、許してくれた相手を「優しい」と感じるのが心のようです。

 逆に、じゃあ優しい心ってなんでしょう。許す側にまわったときに自身に思うのは、自分自身の甘えであったり、優柔不断さであったり、あるいは割り切りのようなものが多くて、優しさについてはなかなかこうであればというような「容(かたち)」が見えてきません。

 優しい心とはなにかを探して、人生を振り返ってみると、かつての友人を思い出します。彼女の優しさはどこから生じたのかに思いを馳せてみると、当時の私自身の境遇が思い返されます。うつ病を患い、夢や希望といったものを失い、なにもかもに諦めを覚えていた頃を。そんな様を見るに見かねてというきっかけがあり、生来の優しさに火がついたのかもしれません。

 そうして今、私は優しい家族に囲まれています。どうしようもないことにつまづき、たくさんの人の優しさに助けられて、右往左往してきた私を、家族は優しく受け入れてくれています。ここにいていいんだと思える人間関係を手に入れられて、優しさについて学ぶ機会を得られたのかもしれません。

優しい心

優しさと優柔不断と甘え

 優しさはときに甘えにも見られ、あいつ甘いなと言われる人が他方では優しい人だと呼ばれることも多いと思います。

 男女間のことで優柔不断さを発揮する男も、ときおり(すべてを知らない女性から)優しいと言われているのを目にしたこともあります。

 受け入れられた側からしてみれば、甘い相手も、優柔不断な相手も、ともに優しい。だとすれば本当の優しさとは何を指して言うのでしょうか。

 ものの本には、自己犠牲をかまわず相手のことを考えて、話し行動する人を優しい人、と描くものが多いようです。なので物語では優しい人はたいていの場合、非常に困難なできごとに追い込まれていきます。現実でそんな人に出逢えた人はどれくらいいるのでしょうか。私は何度かそうした人達に逢えましたが、そのたびにグッと感動したのを覚えています。

 優しいと感じるようなことに出会うと、それが実は甘えだったり優柔不断だったりしても、心は感動するようです。後になってそれがわかったとしても、その時の感動に間違いはありません。

強い心

 優しさと並んで、強い心というものについて少し考えてみました。強い心ってどんなものだろう、と。例えばスポーツをしている人で、心底それだけに打ち込んで他の遊びや娯楽を一切寄せ付けない人がいます。そういう人は、はたから見て「強い」なと思います。あるいは人生の目標をもってそれを追いかけることに一生懸命な人がいます。そういう人も「強い」なと感じます。

 ときどき、特に年配の方に、見栄や体裁のために頑固さを押し通そうとする方がいます。最近は年配に限らずですが、少しばかり地位や肩書を持たれた方によく見受けられます。あれは「強い」と感じるより、「頑固」「頑迷」を感じすにはいられません。

 先に書いた「優しい」感じのする人々は、自分の見栄や体裁を保つために見せかけだけの「強さ」を誇示することはありません。むしろそういうときほど「弱さ」を出し、見栄や体裁を保つことよりも先に自分以外の他者のことを考える傾向が強いように感じます。だから苦労も人一倍多くなるのでしょうけれど…。

 幼いままに強い心。頑固や頑迷な人を見るとそんな感じがして困ります。立派な様子で立派なことを言っているスーツ姿の方を見ながら、なんだかそこに五歳ぐらいの子供が重なって見えるんです。これはたまりません。

強さと頑固さと厳しさ

 強くなればなるほど、厳しくもなり、そして頑固にもなっていくようです。…誰かを思い浮かべての話ではなく、自分自身のことなのですが。

 数年前に娘ができました。私にしたら初めての子供です。中学生になる直前で養子になりました。優しくしようと思いつつも当初、妻との間でこんな約束をしました。「厳しいことは父である私から言う。その後で泣いたり落ち込んだら母である妻が優しくする。」

 当初から頑迷さを誇っていた私ですが、この時もそうだったように思います。そのせいでか、つい最近になって「娘が父に嫌われているんじゃないか疑惑」が発覚しました。厳しすぎるあまり嫌われているんじゃないかと思ってしまったようなんです。

 これはいかんなと思い、高校入試が終わってからは厳しさを半減以下に抑えてはいますが、初心貫徹としきれない心もあまり強い心とは言えないなと、自己反省が繰り返されている今日この頃です。

優しさをまずは育て、強さは後からがいい。

 「強さなんて、正直なところあまり必要じゃない。」これは、昔読んだ書物に書かれていた言葉の一つです。

 「強さなんて、正直なところあまり必要じゃない。むしろいざというときに頑迷さを発揮するような強さなら、そこらの犬でも持っている。あいつらは自分の家から離れようとしないんだから。どれだけ悔しくて悲しい思いをさせられたか。だから人間が同じような頑迷さを発揮するなら、俺はそいつを思いっきりぶん殴って気絶させてでも運ぶ。そうしなきゃ、明日になんねえから。」

 物語自体の題名を忘れてしまいましたが、ここ部分だけはやけにはっきりと覚えています。そうして彼は、実際に頑迷な人にであってしまい、言った通りのことをしようとするんですが、やりすぎて傷を負わせてしまいました。

 物語の話はおいといて。

 心について理屈をこねようとするとき、優しさというのはなかなか難解ですね。それを実践してお手本になるような方が、もっとピックアップされればいいんですが難しいのでしょうか。というところで第三夜を終わります。

 

心の理屈 第弐夜

ひとりよがりの幼い心

唯我独尊

唯我独尊であるということ

 学歴があろうとなかろうと、財産があろうとなかろうと、地位が高かろうと低かろうと、それらはすべて人が形作ったシステムの中で評価される尊さでしかありません。そもそもの学歴をはかる試験も、財産をかたちづくる貨幣という価値も、ましてや地位などは周りにいる人の評価で決まるものでしかなく、それをよりどころにしてしまえば足元が常に不安定になってしまうものだろうと思われます。

 この世に生をうけたその時から命はどれほど尊いものなのか。多くの生命が、生まれてから大人になるまでの間に、他の生命に食べられてしまったり、不慮の事故などで失われてしまいます。そんな現実の世の中で、生きているということ。それが尊ばれるのはあたりまえに理解できる話だと思います。

 生きている、ただそれだけでその命は尊い。それが、唯我独尊。けっしてこの世界でただ自分だけが尊い、ではないことをまずは理解して話をすすめたいと思います。

唯我独尊

ひとりよがりの幼い心

 幼い心は、不安や恐れにとても敏感です。不安や恐れの多くは、無知ゆえに感じるものが多くあります。

 ミツバチを見て恐れを感じる子供は、ミツバチがめったなことでは人を刺さないということや、ミツバチに刺されても絶命するほどの毒はないということなどを理解していません。

 また逆に、無駄に知識を得すぎたゆえに不安や恐れを多く抱く人もいます。

 世界中にある核兵器の数や、そこらじゅうにある地盤の断層、未知のウィルス、日々地球へと飛来する彗星、根治不可能な病気とその病原体。こういったものは、それを知り対処しうる人がより詳しく知識を求めるには問題がないものなのでしょうが、対処の仕方もわからずに知識だけを得てしまえば、無駄に不安や恐れを抱かせるものでしかなく、せいぜい他人に話してその場での関心をかうくらいにしか役に立ちません。

 幼い心はひとりよがりなので、そうしたところも理解できず、いたずらに興味を引く知識ばかりに振り回されてしまい、結果として不安定なことが多いかと思われます。

唯我独尊とひとりよがり

 個々の命はどれも比べようもないほどに尊い。

 これが「唯我独尊」の本当の意味なのですが、ひとりよがりの人はこの言葉を自分一人が特別ととらえます。自分だけが特別なので、自分以外はとるに足りない存在として見ています。

 自分自身を尊い存在だと思えるのであれば、同じように生まれた命もまた同じように尊い。そう考えきれないからこそ「ひとりよがり」なんでしょうね。

 これは個であらわれるうちは、ひとりよがりで幼いなあですむ話なのですが、そうした人の数が多くなり集団になると、今度は笑い話にもならなくなります。

 自分たちの思想や信念だけが尊いと言い出しているような集団には注意が必要です。なんでかは、ここで語らずとも多くの人々が知識として知っているはずですので割愛させていただきます。

愛は心でつかまえよう。

 愛という言葉は、これもまた言葉だけでいろいろなところで変化して使われていますね。そもそも愛って、なんでしょう。

「愛についてもっとよく知りたいなら、あなたが嫌いな誰かを好きになることから始めたほうが良い」
「お互いのことを知り過ぎるほどよく知っている、小さなおじいさんとおばあさんが、まだ友達みたいに仲良しなこと。愛ってこんな感じ」
「あなたを愛している誰かがあなたの名前を呼ぶ時、ちょっと感覚が違ってくるんだ。あなたもその人に名前を呼ばれると、心が “ホッ” と温かくなるはず」

 これらは、ネット上で見つけた4歳から8歳くらいの子供に「愛」とはなにかと質問して返された答えだそうです。本当に子供たちがこう答えたかどうかの真意はおいといて、しかし愛というものについてよく言い表した言葉だなと思います。

 愛は、心でつかまえよう。策略や小手先のものなんかじゃなくて、ですね。

心があるから愛は生まれる?

 心の定義を確認してみましょう。

こころ
【心】
1.体に対し(しかも体の中に宿るものとしての)知識・感情・意志などの精神的な働きのもとになると見られているもの。また、その働き。 「―ここにあらず」(うわのそらだ)
2.事物の内にこもっていて、それの価値のもとになるようなもの。

 辞書にはこんな感じで書かれています。しかしこれでは、なんだかここで語ってきたものとズレがあるような気がします。まるで何かのエネルギーみたいで、さもなければ心霊的な何かのよう、これじゃ。

こころ
【心】
1.感情から生まれ、知識や体験をとおして成長していき、やがて愛をみつけるもの。また、その働き。 「―ここにあらず」(うわのそらだ)
2.愛を見つけた後、自らも愛を生み出していくもの。その土台。

 とりあえず、こうしておいて第二夜の締めとさせていただきます。

 

心の理屈 第壱夜

心の理屈

泣いたり笑ったり怒ったりぼんやりしたり。

生まれたての心

 生き物には、生まれながらにして心があります。それは、泣いたり、笑ったり、怒ってみたり、ぼんやりしてみたり、そうした様子からうかがえます。

 人は生まれてすぐに泣きます。オギャーッと泣いてこの世界に生まれてきます。泣くという行為にはおそらくいくつもの心が埋め込まれているのでしょう。嬉しい時も、悲しい時も、怒ったときも人は泣きますから。だから生まれてすぐに人は泣くのかもしれません。

 生まれたての心には、喜びも悲しみも怒りもあり、それは五感と結びついて成長していきます。見て、聞いて、嗅いで、味わって、触れて成長していくのです。だから心を育てるというのは、見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、そして触れさせることが重要だといいます。

心の理屈

幼い心

 いろいろなことを、見て聞いて嗅いで味わって触れてきはじめた心は、そこで好きと嫌いを形作ります。見て好きなもの、聞いて好きなもの、嗅いで好きなもの、味わいが好きなもの、触れた感触が好きなもの、これらを自分のものにしたいと思うようになります。そうして逆に、嫌いなものは自分から遠ざけようとしはじめ、最初の自我と結びついていきます。

 私はこれが好き。私はこれは嫌い。幼い心にはこれしかありません。

 心はとても正直です。好きなものは好きで、嫌いなものは嫌。生理的な好き嫌いが育まれ幼い心はさらに成長をしていこうとします。好きなものをたくさん手元に得ようと、行動していくのです。

多感な心

 好きと嫌いを覚え、成長をつづけた心はやがてさらに複雑な問題に直面します。それは、好きなものに嫌いなものがオマケでついていて、しかもその嫌いなものを遠ざけられない、といった状況です。

 例えるならなんでしょう。大好きな毛布があって、感触がとても好きで手放したくないのだけど、長いこと使いっぱなしで匂いがひどい、とか。あるいは、大好きな景色があって窓越しにいつも見上げるのだけど、そうするといつも邪魔をされるとか。

 好きなものと嫌いなもの、その二つが結びついたとき、心はどのようにそれを秤にかけるのでしょうね。ここは十人十色と思われ、育った地域や周りの環境からの影響も強く出るところだと思われます。

 こうして掛け算のように、好きと嫌いが細分化されていきます。好きだけど嫌い や、嫌いだけど好き、痛いけど気持ちいい、気持ちいいけど痛い、まぶしいけど綺麗、綺麗だけどまぶしい、うるさいけど好き、臭いけどおいしい、気持ち悪いけどかわいい。なんだかどんどんと心は多感になっていくようです。

 

シンプルな心

 多感さを覚えると、しかし多くの男性はそれを、面倒なことだと思う傾向があるようです。なんだかよくわからないし、伝えるのも面倒だ。そうしてシンプルにまとめようと些細な部分はどんどんと切り捨ててとらえようとしていくようです。

 多くの場合、心はセンサーの役割を担っているので繊細であればあるほど精度は高いといえます。しかし、若輩の頃はとにかく何かに向かって結果を出そうと一生懸命になることが多いです。結果を急げば急ぐほど、細かいセンサーは不要とされていきます。大雑把でいいんです、結果さえ出れば。そうした未熟な考え方が結局は自分自身の感じとる能力を制限しはじめ、やがてシンプルな心が育ちます。

 心はシンプルだととても気楽です。ざわつくことも少なく、不安に思うことも多くないでしょう。覚悟も決まりやすく、オールオアナッシングの選択肢にも躊躇しない強さがあります。強い心のひとつの形がこのシンプルな心と言えるでしょう。

いろいろな心

 いろいろな心が育っているこの世界、素敵な時代だと思いませんか?かつての時代の中で、これほど多様化しこんなにも互いに理解しあえない、そんな心どうしってあったのでしょうか。それぞれが自分たちの心をあけ放ち、見せ合うのは、すでに佳境に達したようです。なぜなら、数の多い群れが自分たちの意に沿わない者たちを数や力で封じ込めようとする、そんなさまをネットの世界でも見ることができるようになったからです。

 理解しあえなくとも、互いに不干渉とはいかないところが、心を考えるうえでの面白いところでもあり、厄介なところでもあります。

 それでも、これほどに多様化した社会の中で、多くの人の胸中にしっかりとした心が育まれていると知れば知るほど、いい時代だなと思わざるをえません。