心の理屈 第玖夜 – 幸せの法則

善悪と聖魔

他人が定める善と悪、心のうちに育つ聖と魔

善悪と聖魔

 わが家には子がふたり(?)いる。お姉ちゃんのほうは、たいへん優しい子であまり我儘をいわない。ときおり自分だけの世界にひたってニコニコしているが話してみると善であり聖な感じの、いわゆる少女だ。弟の子はいたってマイペースな猫である。この子が自分のペースを優先しすぎるきらいのある魔であり、ときおり家族全員の嫌だなと感じるようなことをして気を引こうとする、悪であったりする。

 善であるか悪であるかを論じるのに、難しい物差しも法もいらない。その時その場で見聞きした人が、見たときに感じたまま「善きもの」であれば善で、「悪しきもの」であったなら悪となる。なので見聞きした人が多ければ多いほど善であり悪となる。その時にその場にいた人が全員一致で「善きこと」と判断すればそれは善であり、またその逆もある。善悪なんてそんなものだとそれくらいに理解したらいい。

 同じような表現で聖と魔があるが、こちらは他者には関わりようがないものだ。聖であるか魔であるかは、各々の心のうちのありようだからだ。

 目を閉じて自身の心を感じとったとき、光り輝くような温かさや優しさを感じるなら、それは聖なるものと言えるだろう。しかし多くの場合ドロドロとした感じや梅雨空のような感じを訴える人が少なくない。「それは魔に侵されているからだ」とでも言い出せば霊感商法やらオカルトな分野で商売が成り立つかもしれない。それほど現代社会に住む多くの人の場合、ストレスやらなんやかやで心に魔を住まわせている。

善悪と聖魔

善と悪は周囲の者が決めること。

 そんなわけでわが家の末っ子である猫は、彼以外の判定で善が一票、悪が二票とした位置にいる。…というか壁紙は爪とぎをしないでほしいし、その行いは悪と断じてほしいところだが、娘は頑なに弟をかばう。

 娘からすると、彼が壁紙で爪とぎをするのは、私たちが彼をあまりかまってあげないからだと主張する。それに対して父はこう主張する。かまってほしいからって賃貸住宅の壁紙をはがされたら退去するときにどんだけ費用がかさむと思ってんじゃコラー!…しかし言葉にしてみると、それはあまりに器の小さい言い分だ。

 そんなわけでもっぱら末っ子の世話を細君が引き受けることになるわけだが、その甘ったれぐあいに父は猫に嫉妬しはじめる。…そして最終的に悪のレッテルを張られるのは父である。猫好きにとってみれば猫はそのままで善であり、かわゆい愛おしい存在だと証明されていくのが日常である。…何かいてるんだかわからなくなっていく父。

善聖と善魔

 善なるか否かは、なので他者が決めるもの。となれば、その善は聖魔どっち?なんて思いつくあたりがおかしなものなんである。

 聖人と称される過去の偉人たちは、私たちに比べて何がどう違ったかといえば難しいのではないだろうか。プロパガンダ的に盛に盛られた聖人ともなると、それこそ人智を超えた奇跡を起こしてきた。しかしここで大事なのは、誰のためにその奇跡が起きたのか?

 多くの場合、生活や飢えに苦しむ人々を救おうと活躍し、その成果を実現した行いを聖なるものととらえ、他者が他者を聖と分類したのだ。善であり聖。しかしこのとき本当に聖を感じていたのは、救われた側の人々ではないだろうか。彼らの心に温かで優しい気持ち、希望に満ちて輝かしい思いが湧いたから、それをもたらしてくれた人に対して聖と冠を贈ったのかもしれない。

 善き行いをして人々に聖を感じさせられた者は、善聖となる。いわば西欧諸国でいうところの聖人と呼ばれる人たちかもしれない。

 それに対して、善き行いをしても人々に聖なる気持ちを感じさせられず、不快感や不満、その類の魔を感じさせてしまう人たちがいる。結果的には善行をしたと誰もが認めるのに、なんでかね?ここらは少し難しいところかもしんない。

 

 

聖なのか魔なのかなんて他人にはわからない。

 誰かにしてもらったことに対して、それを受ける側は、時間や回数が増えれば増えるほど贅沢になっていく。砂漠を数日間さ迷い歩きつづけ、ようやくのことでオアシスにたどり着いた旅人は、水一杯に聖を感じる。そしてその旅人がその地にとどまり、三日もすれば水一杯に対して感謝の念は薄れてしまうのが道理。さらに数か月かすれば、水の味に文句さえつけかねない。

 だからであろうか、古き時の権力者たちは人民を生かさず殺さずの状態にしておいて、ときおり祭りを催し日々を送らせる政策をとるものが多かった。日常が不便で不満に満ちるものであればこそ、ときおりの機会がそのはけ口になり、また原動力にもなる。

 以下  つづく

善なる魔と、悪とされる魔