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 普通って、平凡で他の人と変わらず、個性的でないため面白くないって、僕みたいなパンピーを遠回しに揶揄して言いたい時に使うらしい……。そうだろうなって思ってた。でも、そうじゃなかったらよかったのに……。

個性ってなんか泣ける。

 個性が際立って見える人がいると、なんだかその近くにいたくないって、昔からそう思っていた。小学校の頃はそうして、クラスで目立たないところに隠れて過ごしてたし、中学はそれこそ、目立たないように目立たないようにって、日々を通り過ぎることに必死だった。

 なんでそんなことに必死だったかって言うと、……なんでだろう。そう考えると確かに、なんか無駄に一生懸命になって、目立たないで過ごそうってしてたような気がする。当時好きだった漫画にそうした主人公が出てて、そうなりたいって思って頑張っていたような気もする。

 だいたい、個性的って言われている人ってば、みんな可笑しな人ばかりに見えたし、他人に笑われて「人を笑顔にできるから、僕は幸せです」なんて言葉をよく聞くけど、そんなのこれっぽっちも信じられない。そうじゃなくてそうやって道化になることで、月々に一定かそれ以上のお金が稼げて、そのお金を貯めて自分の好きなことをするためって言ってくれた方がなんだかすぅーっと腑に落ちる。引き攣った顔して笑いを取りながら、マイクを向けられるとそんな体裁のいい言葉ばっかり吐いて、疲れたりしないのかなって少し心配にもなる。

 だから僕は思うんだ。個性って言葉を使われている人って、なんか泣けるよねって。……未だにこの考えに共感してくれた友達は一人もいないんだけどね……。

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こころざし日記 5

こころざし日記5

夢と現実

 夢を叶えようと生きる限り、人はいつまでも若々しく清々しいようだ。

 笑顔が絶えることもなく、ときどきはムッとしたり、たまに涙したり、そんな感情の繰り返しが日々を彩っていく。

 年齢を重ねたとしても、そこは変わらない。成りたい自分があって、そうなろうと努力を重ねていける限りは。

 そうしたことを忘れてしまうからきっと、人は老いていくのかもしれない。そうならないために子供という存在は常に生まれ来て、同じ道を歩みながら、やがていつか僕らの少し先へと向かう。

 そんなことに今まで気がつかないで生きてきたのが、なんだかもったいないような気がしている。

夢のその先……

 積み上げていくということができれば、才能など無くても人は大成できるのだろう。故郷で幼馴染が店長をしていた、ラーメン屋さんを思い出してそんなことを考えていた。

 彼に才能がなかったわけではない。実際に食べに行って口に入れたラーメンは、他の店のどこにも負けない美味しさがあった。ギョーザも美味かった。専門店に負けないくらい美味しいと思えた。そしてそれらは、ラーメン店を出すまでの間にあっただろう苦労に耐えたからだと僕は思った。

 続けられるということは、耐えるということだ。嫌なことを我慢し、辛いことを耐え、面倒なことを続けていく。それができるということ自体がものすごい才能なのかもしれない。

 僕は我慢が効かない子供だった。嫌なことがあれば全力でそれを打破しようとあがき、辛いことは辛くないようにと変えていく行動を起こすことが多かった。面倒なことを続けていくなんてとんでもないとすら思っていた。面倒じゃないやり方を探そうと必死になって考え、続けることが楽しくなるように工夫をする方が好きだった。

 けれどそうした行為は、集団の中で活動しなければならないときに、周囲から強く反発を買うことが多い。それも特に、上に立つ人達からだ。彼らから見たら僕は、どうでもいいことに無駄に注力し、加えて周囲の人の考えを変えさせてしまう。そんな見られ方をされてしまえば、結局は大きな反発を買うのかもしれない。

 目をつけられたが最後、ようやくの思いで楽しく続けられるようになった業務から外され、より面倒で辛いことに従事させられていく。得意なことは全て取り上げられて、苦手なことに取り掛かるように言われ、胃の痛む思いをすることになる。

 そんなふうに、捉えてきてしまっていた過去の僕がいる。

 利用したがる人は多い。そう感じるほどに、こちらの甘さにつけこむような甘言やプレッシャーも様々な場所で感じていた。そうしてそういう人に対する反発が強すぎて、そうではなかっただろう人達に対しても同じだろうと決めつけてしまった。振り返って見たら、そんな節がいくつもある。

 戦うことに慣れてしまうと、通常の感覚から遠く離れていくと聞いたことがある。専門に特化すればするほど、専門外のことを知らなくもなる。だから冗談やなんかも理解できない頃が僕にもあったし、同じ場所で働く人たちに通じない常識も沢山あったような気がする。

 舞台での俳優活動を諦めなければいけなかった日から、二度と俳優活動はしまいと自分自身をそう縛り付けてきたのは、僕が自分へと課した自尊心からだ。それもきっと他の人には通じないものなんだろう。約束を反故にして、引き受けた代役をほぼ直前になってから断らなければいけなくなった。

 それくらいのことで、と思う人は思うのだろう。約束の一つや二つ、ごめんと謝ればいくらでも許してもらえると、そんなふうに思うのだろうか。

 現実に確かにそうしたことは多いのかもしれない。でも、僕にはそれはできなかった。だからたぶんこの先も、そうはできないんだろう。常にずっとあの時の、電話をかけて断った日のことが、フラッシュバックして悲しくなる。

自身を尊ぶ自尊心

 たぶん読んでいる人にもわからないだろう。この文章を書きながら、そんなことすら思いはじめている。けれど、なんでだろうか、書くことをやめることができないでいる。

 いつか僕の子供がこれを読む日が来て、そうしてあの子に何を伝えたいのかといえば、ひとえに自尊心の持ち方についてだろう。

 芯が強く、内側にとても強いものを持った子だと思う。中学に入るときに何気なく勧めた吹奏楽を、ついに6年間やり遂げようとしている。

 周りをよく見て、気遣うことの大切さを教え続けてきたら、学校ではいつの間にかずいぶんと多くの友達に囲まれているみたいだ。

 普段はぼんやりとしていることも多いが、それでもいつの間に思い描いたのか、自身の夢を追いかけようとしはじめている。親として反対すれば、しばらくは言われた通りに諦めたような顔をするんだろうが、きっと高校を卒業してその先で夢を追いかけようとしはじめそうだ。

 周囲の協力を得られないままに、独りきりで挑むにはちょいと危なげな夢だと思う。

 駄目だと言われたらきっと、かつての僕自身のように、周り中を敵と思いながら頑張るしかなくなるだろうと思えた。そうして少なからず上手くいけば、そこで得る自尊心はちょいとだけいびつなものになってしまうと思う。

 僕のそれが歪んでいるのだから、同じような道を行こうとすれば、きっと同じようになってしまうかもしれない。

 それが不安だ。

 幸いにして妻は、まともな部類に入る人だと思う。列に並んで買い物をするのも苦にしないし、人通りの多い所でイライラとしたりしない。車の渋滞に巻き込まれても平気な顔をして笑っていてくれる。

 だから妻がそうしていてくれる限りは、娘は僕みたいにはならないでくれると思う。きっとそうだろう、大丈夫だろう、そんなことを繰り返し思ったりもしている。

 僕は僕の歪な自尊心のおかげで、たぶんうつ病からも戻ってくることができたんだろう。だけどうつを発症した原因にも、この歪すぎる自尊心があるんじゃないかと不安にもなる。

 はぁ……。結局は何を伝えたいんだろうか。反面教師として、父ちゃんみたいにはなるなよ?ってことか?いやいや、それだと自尊心とか関係なくね?もっと俯瞰的な何かなのか……。ていうか、まとまりのない文章だなこれ。

 こうしてまた一日が過ぎていく。なんだかもったいなくて仕方ない。

こころざし日記 4

こころざし日記4

夢のはじまり

 今日、ついに!わが家の娘が自分の思い描く夢に挑む!

 娘、頑張れ!

 夢は誰でも思い描ける。その夢に向かって努力を重ねれば、いつか必ず目の前に実現するだろうものが夢だ。

 憧れているだけじゃ、夢は夢のまま。

夢は叶えるためにある

 最初はぼんやりと、どこか遠くに飾られた絵のように思い描いていたような覚えがある。

 夢と言うにはあまりにもぼんやりとし過ぎていて、いつごろからだろうか、四方に四散するように消えていってしまった。

 ひとえに、思い描く具体的な像が見出せなかったからである。

 憧れがある人は強い。より具体的な夢の体現者が、見えているのだから。

 つらつらとそんな話を続けても時間の無駄なので、今回はここらで〆ておこう。

 挑め、そして学べ。失敗は次に繰り返さないための学びでもある。そして挫けるな。より強く願え。自分自身がどうなりたいのか、他の誰でもない、自分自身で思い描くんだ。

 それを繰り返していくことこそが、夢を叶えていくプロセスなのだから。

こころざし日記 3

こころざし日記3

つれあいの夢と、こころざし

 つれあいの夢が、だんだんと固まってきている。

 もともと、動物園の飼育員に成りたかったそうだ。高校を卒業するときまでそう思っていたのだが、当時の動物園では女性の募集が少なすぎて、かなり頑張って色々な伝手を頼って、それでも断念したらしい。

 そんなつれあいが、去年に「愛玩動物飼養管理士 2級」を取得。夢を夢のまま終わらせないために頑張りはじめ、今は地元の動物保護施設へと働きに出るようになった。

 人生を共に歩もうと決めた相手が、こうして自分の夢も諦めないでいてくれることほど心強いものはない。働きに出る分、家事はできるかぎり分担していきたいと思い、仕事場までの送り迎えもさせてもらうことにしている。フリーランスゆえの強みが生きていると思う。

線路は続くよどこまでも
並走する線路

 まじめで優しいところが強いつれあいは、そういう性格だから仕事に出るとついついオーバーワーク気味になってしまうことが多い。

 命の世話をする仕事なので、それなりに肉体労働も多いそうだ。犬を抱えあげたり、散歩に連れて行ったり、子猫の世話をしたり、大人猫にご飯をあげたり。そうした仕事が中心だと聞くが、中腰での作業も多く体は疲れ果てて帰ってくる。

 そうした母を見て、娘も自分の夢をしっかりと思い描くようになった。やはり同姓の親の背中は励みになるみたいだ。競い合うように、それでいて支え合うように、これからも母子ともに仲良く夢を追いかけ合ってほしいと願う。

 目標を持って生きている間は、いろいろな楽しさが溢れていくものだと思う。幸せな家族になろうと決めた日に、そんな話をつれあいと話した覚えがある。

 生活に追われ、その憂さを晴らすかのように娯楽に興じ、収入を超えないまでもそのほとんどを飲食やゲーム、行楽などにたれ流しつづけるだけの生活では、幸せからほど遠い。何かを学び、何かを得て、そうしてその得たものを誰かに与えていけるような暮らしをしていきたい、と。

 だからその方向へと向き始めた今、私は精一杯に縁の下の力持ちを目指していきたいと願う。つれあいと、娘と、二人が夢を追い続けて行けるように。

応援!

 こころざし、そう言い切るには、夢がたんなる夢のままでは遠く感じる。

 娘が目指したいと言ったものは、自分自身の自己実現であり、自分がこうなりたい、というところからまだ脱却できていない。これが私の夢だから、と言うのであれば十二分の目標だろう。

 つれあいはと言えば、夢の先には最初から、保護される犬猫の幸せが願われている。それだけでなく、保護猫たちの新たな飼い主となる、見知らぬ人々のことまでも考えているみたいだ。こうなればもう十分にこころざしだと言える気もする。

 娘も実際に社会に出て、いつかどこかで現場で仕事するプロに出会える日が来れば、母の追う夢の意味が見えるようになるのかもしれない。より具体的な体現者に会うことで学ぶものは多い。しかしそこまでの間に、偽りのプロに散々騙されたり惑わされたりということもあるかもしれない。

 目指すのであれば、中途半端な妥協を覚えたはんなりのいい加減なものなんかではなく、できれば生涯をかけて実現して生きたいと願えるような目標を手に入れて欲しい。

 そうなれば、その夢や志が叶うまでの間はずっと、生き生きと幸せな日々を過ごして行けるだろうから。辛いも多く、面倒も山ほど生まれ、キツイ日々でもあるのだけれど、そこで加減をある程度覚えたらいいな。オーバーワークを日常化してしまわないように。

 なんてことを思いながらこの備忘録ともいえる日記をつけている私自身は、つれあいと娘に出逢えた日からずっと、夢を追いかけ続けている。

 私の夢は、家族が幸せでありつづけること。

 幸せがどういうものなのかは、ひとりひとり違うものだから、こうして似たような方向性の幸せを目指せる、そんな家族を得られてとても幸せだと思う。だからこの幸せを獲得し続けていくために、できることは精一杯していこうと願う。

 夢は叶ってからの方が大切。叶えてそこでハイ終わり!な夢であれば面倒はないのかもしれないのだけれど。叶った先で次の方向を見定めないと、いつかになって、あの頃は良かったと、そんな後ろ向きな人生になってしまうかもしれない。

 実際に私自身が、二十代の頃を思い返して、複雑な思いでその頃の自分に後悔と羨望を感じることがあるのだから、そうなんだろう。そんな思いをそのままにして、見事に後ろだけ向いたままの生き方をしていたことも今は懐かしい。

 懐かしんでみたが、けれどやっぱり振り返ったままの人生は嫌だ。あの頃の胸中を胸に、今この場所で前へと顔を向けて一歩一歩でも進んでいきたい。

 いじょ……。

末の子 JOY.

こころざし日記 2

こころざし日記2

娘の夢と、こころざし

 人間万事、塞翁が馬。

 確かに幸せも不幸も、何が原因でそうなるのかなんてわかったものじゃあない。こうすれば幸せになれる!こんなことをすると不幸になる!なんて、普通なら予測などできるものではない。

 いきなり何をいいだしてるんだ?と、思われた方は正しい。なんだかこのところ、おかしな言葉を勝手に口にしたり、書き出したりということが増えてきてしまったからだ。

 ようやくか、と思った。

2014水辺にて

 さて、何がようやくか、なんだかわかりもしないが、意味のない言葉は置いておいて娘の目標の話をしよう。

 先日教えた発声の基礎を、今日まで毎晩繰り返している。基礎なんてものは、面白みもないし楽しくもない。それを文句も言わず、ちゃんとやっている。

 「い、え、あ、お、う、き、け、か、こ、く、し、せ、さ、そ、す……」

 まだまだ、口の形が定まらないのか使い方が誤っているのか、時折かすれてしまう音が聞こえる。

 「あめんぼ赤いなアイウエオ、浮藻に小海老も泳いでる……」

 自分のスマートフォンで、発声した声を録音して、それを聞き返しながら悪い所を直していこうとしている様子なんだけど、まだまだどこを直せばいいのかがわからないようだ。

応援します!

 週末になれば少しばかりでも時間を取って、細かな修正箇所を教えられるとは思う。それまで嫌になって投げ出さなければいいが。

 演じるというのは、最初の入り口は「もしも」を表現することだと思う。「もしも、自分が猫だったら」「もしも、私が天才だったら」「もしも、俺が異世界に転生したら」「もしも、ヒーローだったら」「もしも、ヴィランだったら」

 子供の頃に誰でも一度くらいは、そうした遊びをしたことがあると思う。入り口はそこからでいいんだ。そうして、より身近な誰かにその視線を向けていく。「もしも、自分が学校の先生だったら」「もしも、自分が交番のお巡りさんだったら」「もしも、消防隊員だったら」「もしも、お医者さんだったら」

 その先には様々な可能性が見えてくるかもしれない。演じるだけでなく、本気でそうなろうと目指して、成ってしまうというのもまたよくある話だ。

 演者の中にも凝り性な人はたまにいて、資格が必要な職業の役をするにあたり実際に試験を受けに行くなんて輩もいる。演技者としてどうなのか?といった批判を昔は耳にしたこともあったが、取れるのなら取ってしまえばいい。資格ってのはそういうもんだと私は思う。

 そうして日常の様々な人々から、考え方、目標、手段、体の動かし方、視線の移動、声の抑揚、聴覚の癖など、いろいろなことを学んで、理解しようとしていくのも俳優の仕事だ。ある程度は理解したうえでないと、嘘が外面だけになる。演じるというのはそういうことだ。

 ましてや表情や体の動きで伝えられない声だけの声優というものが、どれだけ大変なことなのかまだまだ分かっていないだろう。……できれば、わからないままスタートを切って欲しい。何らかの役に就いて声だけで演じることの難しさをわかって欲しいとは思う。

 ……そうは思うんだが、それを叶えてくれそうな現場が果たしてどれだけあることか。放送されているアニメを見ていれば嫌でもその心配が出てくる。

 とはいえ、娘の人生なのだからその船長は娘なわけだ。私と妻は二人して、時期が来るまでは乗組員の一人として。いつか仲間たちに巡り合えたならば、船出する船を岸辺で見送ることになるのだろう。

 そんな日を夢想するだけで、嬉しくもあり、寂しくもあり。なんとも言えない想いが浮かんでくるのを感じる。

 ……ま、見ている感じではかなり先のことになりそうではあるけれども。

 いじょ……。

娘の弟 JOY.

こころざし日記 1

こころざし日記1

娘の夢と、こころざし

 早いもので娘がもう、高校三年生になった。

 妻と一緒に家族となってから五年と少しが経過したことになる。出逢った最初はちっちゃな小学生で、電車で帰ろうとすると駅で涙鼻水垂れ流して大泣きしていた子が、大きくなったものだ。

 そんな娘が社会へ出るために、今日意を決したような顔で「発声練習の基礎を教えてください」と言ってきた。

 ようやくか、と思った。

家族になった頃の桜

 いつからか、娘の将来の夢は「声優」となってしまっていた。もともとアニメを見るのが好きで、漫画の本も古本屋を開けそうなほどに家にある。

 そもそも、中学に入って吹奏楽部に入部したというのに、なんでバンドとか歌手だとかではなく、声優なんだろう?考えても仕方のないことだと知りつつ、ついつい考えてしまう。

 そうしてかつて、俳優を志していた頃の自分を思い出すことにもなる。無知で無謀で無計画で、加えて無指向性に動くばかりで結果がほとんど出なかったあの頃を思い出してしまう。

 まあ、若さゆえのモニュモニュというやつだろう。

家族で見た風景 その一

 娘が声優になりたいと言い出したのは、高校へあがってしばらくした頃だったような覚えがある。……間違えていたらごめんなさい。

 それからどれだけの時間がかかって、ようやく具体的な行動にうつそうと言うのだ。応援は惜しまない。できる範囲でだが。

 発声練習の基礎となるあたりは、習ったのが既に30年も昔のことだし、反復練習をしていたのはもう5年近く前のことになっている。……具体的な方法とかかなり曖昧にしか覚えてない。

 こんないいかげんで教えていいんだろうか?そんな考えが頭に浮かんだ。そしてすぐさま、Googleさんにこう尋ねてみた。

 「OK Google、発声練習の基礎について教えて」

 「了解しました。ハッセイレンシュウのキソについては、こんな感じです」

 ……我が家のGoogleさんはとてもできた人だ。見るとそこには、数多くの”発声練習”と”基礎”に関わるサイトが並んで表示されている。

 藁にもすがる思いでひととおり、三ページくらいだろうか?検索結果の。を、通し読みして、そこからおもむろに娘に向かって「今からはじめるよ」と言ってみた。実は「発声練習の基礎を教えてください」と言われて、「仕事がまだあるから、それが終ってからならいいよ」と胡麻化していたわけだ。

 というわけでこれから、基礎の基礎となる発生の仕組み(口腔内と腹式呼吸)と、はじめての発声練習あめんぼ赤いな北原白秋の授業をしてまいります。

 いじょ……。

娘の弟 JOY.